カトリックとは、キリスト教の「古典」的流れをさす。
ところが、それには実は、二つの流れがある。
ローマンカトリックと、東方教会である。
ローマ帝国がコンスタンティヌス帝の時代に、ローマの国教となり、ローマ帝国全土に布教されていった時代には、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレキサンドリアと五ヶ所の主教座教会があった。
しかし、395年のローマ帝国東西分裂、そして476年、西ローマ帝国が滅亡すると、ローマ教会のみが、ローマ帝国外に切り離されてしまう。
ここから、ローマンカトリックと、東方教会、すなわちギリシャ正教会の別々の歩みが始まっていった。
ローマンカトリックは、中世ヨーロッパの歴史の中で、さまざまな解釈と歴史的付加価値がつけられ、現在に至るキリスト教のスタイルを作り上げていったとされている。
その中で、十字軍や免罪符など、さまざまな過ちもあり、宗教革命、ルターによるプロテスタントの始まり、あるいはイグナチオ・ロヨラのカトリックの改革などを経て、現在への流れができていったという。
東方教会は、東ローマ帝国、のちにビザンチン帝国の主導の中で、連綿と1千年以上も歴史を刻んでいく。1453年ついにビザンチン帝国がオスマン・トルコに滅ぼされると、それはロシア帝国に引き継がれる。
そして今、ロシア正教とも言われるのは、そうした流れの中でのことだ。
御茶ノ水の聖橋ちかくには、壮大なニコライ堂があるが、あれが日本での東方教会の総本山になる。
こうした歴史を知ると、東方教会が、ローマンカトリックよりも、より古典的なキリスト教の流れを受け継いでいるかのように思える。ローマンカトリックがもつ、中世のさまざまな付加価値は、そこにはなく、また別の色彩を持っているように見える。

日本にも、ニコライ堂意外に、いくつかの教会があるという。
今日、そのひとつの教会で、葬儀があり、参列する機会を得た。
まさしく、歴史の書籍やメディアで見る、東方教会らしい装飾の中で、葬儀が行われた。
普段見慣れ、聞きなれたローマン・カトリックの風景、賛美歌とは、またひとつ違う文化に触れたようだ。

みなまでは、ここに掲載しないけれど、一つ一つに、歴史の流れ、その重みを思うひと時だった。
最近、「ダビンチ・コード」以来、さまざまなキリスト教関係の書物や記事を好んで読むが、そこで気づく事は、今我々が知っているキリスト教関連の知識の、その多くが聖書以降、特に中世にかけて、議論と解釈に中で、積み上げられ、作り上げられてきたものだということに気づく。
そのときに、東方教会について、またひとつ知ることができれば、その違いの理解が深まるような気がする。
以前ここのブログに書いたが、今でもシナイ半島にある、東方教会の修道院では、イスラム教徒がその職員として維持に働き、お互いに認め合い、共存して生活しているという。
本来、宗教とは、排斥しあうものではないのではないか。。。
その修道院を紹介したNHKの番組は、最後にそう語っていたように思った。
ふーっ、堅い話は疲れるので、午後のお茶にしよう。



ちょっと、リッチに。たまに行く店に行った。
ここは、以前、フリートーキングの友人がウェートレスをしていて、何度かご馳走になってしまったことがある。
残念ながら、彼女は海外に飛び立ってしまい、最近、帰ってこないことになりました、との連絡があった。
疲れたから、夕食は、「ガスト」になった。


セットメニュー。
今日はちょっと、疲れました。
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